最近、臨床心理士の方とお話しする機会がありました。
そこで少し興味深いお話しを聞いたので、
ブログでアウトプットしてみようと思います。
心理士の先生曰く
「スクリーンショットは、真実を写したものではありません」
〇ある日常
SNSで、ある投稿がスクショ付きで拡散される。
あるやりとりの文脈から、一部を切り取ったスクショ画像。
コメント欄では「ひどい」「クズ」「死ね」といった相手を非難する言葉や、
あるいはスクショを投稿した本人を「名誉棄損」「やりすぎ」と責める言葉が飛び交う。
ここ数年、よく見るようになった光景です。
先生は、こうした出来事を例に出し、
「スクショは”事実の一部”を写しているけれど”真実”を写しているとは限らないんですよ」
といったのです。
〇真実を歪める見る側の“レンズ”
同じ一文でも、「共感しながら読んだ人」と「反感をもって読んだ人」とでは、
受け取り方がまるで違う。
そして私たちは、
常に自分の価値観や経験という“レンズ”を通してものを見ている。
また、そのレンズがあることに気づかず、
「これは“客観的な事実”です」と信じ込んでしまうことが往々にしてあり、
一方的な誤解や断罪が始まってしまう。
これが世に言う”炎上”の流れだそうです。
けれど、スクリーンショットに写っているのは、
そうしたメッセージのやり取りがあった、という”事実”だけ。
SNSのスクショを見て「ひどい!許せない!」と感じたとき。
本当にその人が“ひどいことを言っている”のか?
それとも、“自分のなかにある『許せない』気持ちが過剰に反応している”のか?
少し立ち止まって考えてみる、そんな視点が大切なのだと、先生は教えてくれました。
〇真実を作るもの
スクショに限らず、あらゆる「切り取り」が写しているのは
”そうしたものがありました”という”事実”です。
相手がどういう意図でメッセージを送り、
それを当事者がどう感じ、
そこに至るまでにどんなやり取りや日常があったのか…
そうしたことって、当事者同士でさえ共通の認識にならないことがあります。
本人たちが”これが真実!”と思うものは、
本人たちの”気持ちや価値観”が作り出した”その人だけの真実”なのです。
この世に人の数だけ存在するものの、ほんの一つ。

〇真実がときに、自分を縛る
人はなかなか自分の”レンズ”には気が付けないもの。
”自分のレンズ”をとおしてみたこれが”正しいはずなのに!”と、相手を責めたくなってしまう。
または反対に、
”相手のレンズ”をとおしてみた”真実”こそが正解で、
自分の気持ちもそれに委ねてしまいたくなる。
こうした気持ちが、支配や依存につながってしまうと、教えてもらいました。
私がそのことについて
「それではまるで”真実”という正しさに縛られているみたいですね」と言ったら、
先生は「そうですね、”正しい!”気持ちが人を救ってくれるわけではないことは、あるかもしれませんね」と返してくださいました。
私は今、いろいろと発信をしています。
自分の思いや考えを、できるだけ誠実に、できるだけ丁寧に伝えようと
言葉を尽くして書いているつもりです。
それでもきっと、
誰かにとっては「気に食わない内容」になることって、絶対にあります。
「気に食わない!」の気持ちも、読んだ人の”大事な真実”なんです。
だからこそ、
”真実”が無数に存在することを心にとめておくことが大切なのだと、
先生は言っていました。
”唯一絶対の正解”があると思ってしまうと、
「自分が間違っているのかも…」
「あの人は間違っている!」
そんな風に、自分を苦しめて、縛ってしまうのだと。
〇「その一枚」の奥にある、無数の景色を想像する
ある言葉が誰かに届くとき、
その人の文脈、心の状態、過去の経験をとおして、その言葉に「意味」が生まれていきます。
スクショって便利です。
でも、切り取られたそれが”見えなくしてしまうもの”もある。
一枚のスクリーンショットの向こうにある、
語られなかった事柄や、読み飛ばされていく行間や、背景に潜む当事者たちの心の揺れ。
見えないものに想像を向けることが、
”真実に近づく”ために、私たちができることなのかもしれません。
あなたは、どこかの誰かの一文に怒りを感じたことがありますか?
私は、あります。
それはきっと、私が自分のレンズに気が付いていなかったから。
「スクショは真実を写さない」
この言葉が、あなたの心にそっと残って、
これから誰かの言葉や行動に触れるとき、
少しだけ「想像する間」を持つきっかけになったら…。
今日は、そんな気持ちで、この記事を綴りました。

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