挑まない恐さ

日々の徒然

何かに挑戦するのって、勇気がいりますよね。

私はつい最近、自分にとって少し大きな決断をしたのですが、
やはりその決断を下すまでには、あれこれと思い悩むこともありました。
正直、心配も、緊張も、怖さも、たくさんの気持ちが胸にあふれました。
ただ、挑戦する恐さと同じくらい、何にも挑まずにいることもじつは、恐いことだと思います。

私は大学卒業後、大学院進学という進路を選びました。
大学院は何をするところなのかといえば、ずばり研究をするところだと私は思っています。
そう、“勉強”ではなく“研究”をするのです。

勉強することと、研究をすることの大きな違いは何か。
それは、自発的学びの度合いだと感じています。

これについては皆さまさまざまなご意見があるでしょうし、
若輩の私が語るのもおこがましい気もしますが…
勉強は、基本的に教えてくれる人(ときにモノ)がいて、教えられたことを吸収することが基盤にあります。
しかし研究は、何を知りたいのか、調べたいのか、まずそこから自分で考えなくてはなりません。
もちろん大学院では指導教員と呼ばれる教授のもとで研究をすすめますが、
教授がこうしなさいといったからこうします、では何も進まないのです。

そして、研究というものをかじって痛感したのは
“なにも調べず、なにも試さず、なにも失敗をしていない人間には、語る資格がない”
ということです。
もちろん、私の考えがすべての人の、多くの事象に当てはまるとは言いません。
ただ、
分野の文理を問わず、
先人の道筋を見つめ、
検証を重ね、
失敗を繰り返し、
さまざまな指摘を受け、
改善策を検討し、
または新たな道筋を立て直し…
そうやって真理を求めるのが研究だと感じます。
そうしたなかでは、机上の空論は通用しないのです。

何かを始める前に尻込みをしてしまう気持ちは多くの人に心当たりがあるのではないでしょうか。
もちろん、私にもその気持ちがわかります。
ただ、何かに挑む前に
「~だから無理」
「~には似合わない」
「~なんて不釣り合い」
「今のままでも別に…」
「別に今じゃなくても…」
といった言葉が出てきてしまうなら、それはちょっともったいないな…と感じるのです。

挑みたいなにかがあるなら、挑んでからの方がわかることがたくさんあります。
もし思うような結果にならなかったとして、
挑み続けるか、ほかの道を行くか、それはまず挑んでから決めたって、きっと大丈夫です。

今の私は、まだ決断を下したばかりの状況です。
これからがどうなるか、大成功!となるか、はたまた崖っぷち!となるか、それもわかりません。
でも、先のことがわからなくても、あまり恐さはないのです。
それは、青臭い研究者の卵だった私が、
「失敗からも学べることがある、挑んだ者にしか語れないものがある」
と教えてくれるからです。

この記事を、どのような方が見てくださっているのかはわからないのですが、
もし、なにか足踏みしてしまうものにぶつかって、気持ちが揺らいでいる人がいるのだとしたら、そういう考え方もあるのですよと、
そっと一言申し上げたい気持ちで書かせていただきました。

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