わが家の本棚

日々の徒然

 私の実家には“お父さんの書斎”がありました。
といっても、うちは普通のマンションなので、いくつも部屋があるような豪邸ではありません。
限られた部屋の一室に、父が仕事に使うPCや書類や、その他いろいろなものをつめ込んで“お父さんの書斎”としていました(母はリビングで仕事をしたい人だったので、母の仕事場はリビング)。
そして、その“お父さんの書斎”の壁の一面には、天井までの高さの本棚が並んでいました。

 私は文章を読むのが好きですし、わりと本を読む方だと思います。
このブログでもちまちまと綴っておりますが、アクセサリー制作でも本をモチーフにした作品を作っており、好きな本についてもブログで取り上げています。
なんとはなく、生活の一部に“本がある”という感じでしょうか。
そういう私の感覚を育ててくれたのは、実家にある、あの本棚だった気がします。
 ただ、それがものすごく“贅沢なこと”だと心の底から気が付けたのは、つい最近だった気がします。

 そもそも、普通に本を読めることそのものが、とんでもなく贅沢なことです。
本を読むには、当たり前すぎることですが、字が読めなくてはいけません。日本の識字率が世界でもトップレベルにあるのは、ほとんどの人が義務教育で読み書きを習えるから。
ネットや書店で簡単に本が買えるのは、それだけ社会の仕組みが整っているから。
書店に行って、たくさんの本のなかから読みたいものを探したり選べたりできるのは、それだけ多くの分野で学問・研究が進んでいるから。
当たり前すぎて、ふと忘れがちになりますが、それって世界的に見たら、まったく“当たり前”じゃない。

 だからなのか、私はあまり本を読むことが“すごい”とか、本を読む人の方が“優れている”とは思いません。
それは、やっぱり人には好き嫌いがあり、向き不向きがあり、それらは人としての能力や成熟度とは単純に=(イコール)にならないと考えるからです。
そもそも本を買うことに、金銭的事情で手が届かない人がいることも知っています。
私は、たまたま本を読むことに慣れる環境で育つことができ、たまたま文章を読むことが好きで、たまたま大人になった今もそれが続いているだけ。

ただ、あるとき人に言われました。
「今はネットでなんでも調べられるのに、わざわざ本なんて読む意味がわからない。長々と文章を読むのなんて時間の無駄」と。
この言葉を言った人の、価値観を否定するつもりは全くありません。
その人はそういう人だ、というだけの話しです。
でも、もし一言だけ申し添えてよいのなら、
“自分が無意味と思っていることに価値を見出す人間も、世の中にはいる”ということを心の隅においてほしかったな、という気がします。もう、それをお伝えすることはかないませんが…。

 と、そんな感傷的な思い出はさておき、2024年の目標の一つはずばり“新しい本棚を買う”です!!
実家を出てずいぶん経ちますが、あいかわらず私の部屋にはわりとたくさんの本があります。
それらを収納している棚が、最近、どうにも侘しく感じられるのです。
棚のなかにいる本たちが
「こんなに場所をとってすみません…」
「ここでひっそりしておきますから、どうぞお気遣いなく…」
そんな風に言っているように感じられるのです。
だから2024年こそは、本たちが部屋のなかで
「ここは私たちの居場所です」
「私たちはここにいる権利があります、だってそれだけの価値がありますから」
と、堂々として見えるような棚を買ってあげたい
と思います。

 あるとき、ある人から、素敵な言葉を言っていただきました。
「さっちゃんは、本を持っているのではなくて、飼っている」と。
本は無機物です。でも、確かに自分と本とのあいだには対話があり、手入れという“世話をする”行為があります。そう、ただそこに置いてあるのではなく、まさしく“飼っていた”のです。

自分の大切なものは、その価値にふさわしい扱いをする。
それはきっと、モノだけでなくありとあらゆる事柄に共通して言えること。
その一つとして、2024年、私は新しい本棚を買います。

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