言葉を紡ぐ‐ブログを始めて…‐

日々の徒然

 4月の休職にあわせて始めたこのブログも、気がつけば早4ヵ月ちかくがたちました。

 日々思うままに書きつけてきた、私の備忘録のようなこのブログを、いったいどんな方が読んでいるのか…と思うときもありましたが、
折に触れ「ブログ読みました」や、「ブログに書いてたあの事だけど…」と話題にしていただくことが増え、私の想像以上には皆さまのお目に触れているのだな、としみじみとした感謝の気持ちにひたっております。

 つい昨日、ずっと憧れていた方と、オンライン越しではありますがお話しをする機会にめぐまれ、そこでなんと、私の書いた記事を読んでくださったとお伝えいただいたのです!
 私はその方のSNS投稿をよく読ませていただいており、言葉の誠実さと優しさ、ときに垣間見える潔さに惹かれていました。
なので、自分をひきつける文章を紡ぎだすその方から、私の書いた内容をほめていただいたときは、本当に嬉しくありがたい気持ちでいっぱいでした。

 私は、持って生まれた文才などはない人間です。
これはけして自分を卑下しているのではなく、今までの人生で幾度も行ってきた” ものを書く”という行為を思い返したとき、自分はしきりに考え、推敲し、見直し、読み返し、そうしてやっと文章を整えてきたという自覚があるからです。

 振り返れば、文章を書くということについては大学院時代、論文を書かなくてはならずに必要にせまられ猛勉強した、という気がしています。
 私の論文指導をしてくれた恩師は、朗らかで明るく、その功績と同等に人柄を尊ばれるような方でした。
そんな教授が、論文執筆のさいに、ことさら念を押して伝えてくれたのは“きれいな文章は、声に出して読んだときにも美しい”ということです。
論文もそうですが、ブログも、本も、世の中にあふれる文章の多くは、黙読することを前提としたものがほとんどです。
しかし教授は、「声に出して読んだとき、よどみなくリズミカルに読める文章は、黙読したとき相手の頭にすっと入るのだ」と、推敲のときは必ず、学生に書いたものを声に出して読ませました。
実際私も、自分が書いた文章にもかかわらず、いざ声に出して読んだとたん、おのれの言葉の頼りなさに、心がしぼんでいくような気持ちになったことが幾度もありました。

 そんな歯がゆく恥ずかしい経験があったからこそ、”ブログというツールで自分の気持ちを表現しよう”という思いに至ったのでしょう。
また、自分の思考を整理したいとき、思い出を留めておきたいとき、人に気持ちを伝えたいとき、私は文字の力を存分に借りることでそれらをかなえることが出来ています。

 なにかお得で有益な情報があるわけでもない私のブログを、もし貴重な時間をさいて読んでくださる誰かがいるのだとしたら、
その方の心に少しでも、楽しさや、安らぎや、気付きや、問いかけが残るような、そんな文章を綴れるように書くことと向き合っていきたいのです。

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