ふと、夫が「お迎えするって不思議な表現だなーって思ってたけど、最近はけっこう使う人増えたよね」と言いいだしました。
なにかしらの”モノ”を購入したとき、買ったではなく「お迎えした」という表現がここ最近かなり広まってきた気がします。かくいう私も良く使っている表現です。なぜ使い始めたのかは覚えていませんが、ごく自然に馴染んで使っていたように思います。
そもそも”お迎え”とは”人”(まれに神様)に対して使う表現です。この言葉をモノに対して使うとき、私自身がモノを人と見なしているかというと…実はそれも少し違う気がしていて、モノを擬人化している、という単純な話しではないように思います。
断捨離という言葉が流行って久しいですが、私も一時期このブームに乗っかり、あれこれとモノの整理をした人間です。そのときに”自分にとって本当に大切なものにだけ囲まれていたい!”という考えを持つようになりました。私はかなり物持ち(特にアクセサリーと本)な方だと思いますが、たくさんあるそれらはどれも”自分にとって大切なもの”です。いわばお気に入りの精鋭ですね。なので、新しく気に入ったものを買うという行為は”あくまでモノはモノでありつつ自分の世界に新しい仲間を加える”という感覚で、モノを自分の空間に招待する気持ちから”お迎え”という表現が自然と馴染んだのかなと思います。
もちろんモノは劣化もすれば状況の変化で手放すときも来ます。そうしたときに、そのモノと真正面から向き合ってきた自負があれば”破棄”や”捨てる”ではなく、きれいな”お別れ”ができるのだと感じます。人と人の付き合いにも通じるようなところがありますが、人格ならぬモノにはモノの”物格”があるような気がしており、相手の格を尊重し、自分にとって大切なものを丁寧にあつかうことが、ひいては自身の心も整えてくれるような気がするのです。
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