ガウディとサグラダ・ファミリア展 In 東京国立近代美術館

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 行ってまいりました、ガウディとサグラダ・ファミリア展。
 建築界における未完の大作、サグラダ・ファミリア聖堂(正式名称:聖家族贖罪教会)。
 サグラダ・ファミリアはいまだ未完成の姿ながら、多くの人を惹きつけてやまない魅力を放っています。資金不足や、設計のあまりの複雑さから、完成までは数十年、はたまた100年以上かかるといわれていた大プロジェクトも、建築技術やPCによる設計技術の進歩により、いよいよ完成が見えてきたといわれています。

 私は建築には疎いのですが、今回の展覧会でとても印象的だったのが、ガウディその人が、なんと謙虚で実直な人だったのか、ということです。
もちろん、私はガウディ本人に会ったことはないのでその人柄をつぶさに知ることは叶いません。
しかし、展示の内容から垣間見える“建築家ガウディ”は、あの名だたる名作サグラダ・ファミリアの設計者とは思えないほど、謙虚で実直で、創造というものに真摯に向き合っていました。

人は創造しない。 人は発見し、その発見から出発する。

 今回の展示で強く心に残った彼の言葉です。
 人はよく言います。1を10にするより、0から1を生み出す方が大変だと。
この言葉の解釈についてはいろいろな見方ができますが、とにかく、何もないところから生み出す大変さ、というのは誰しも想像に難くないと思います。
 しかしガウディは、そもそも私たちが0だと思っているところにさえ、私たちが見聞きし触れてきたさまざまな事柄が、知らず知らずのうちにも下地になっている、と言っているかのようです。

 私は、オリジナルアクセサリーブランド「ShiroMuku」と、二次創作アクセサリーブランド「煌星」という2つのブランドを運営しています。
 二次創作ブランドの方は、「美少女戦士セーラームーン」をはじめとしたアニメ・漫画作品を発想の下地にしているので”0からの創造”では、もちろんありません。
 では、オリジナルブランドの方はどうか…。見る人は「それはあなたのオリジナルだよ」と言ってくれるかもしれません。もちろん、すべて私が考えて、私がこの手で作った作品です。
しかし、ガウディの言葉を読んだとき、「私が作った」という言葉の裏に、自分はどんな気持ちをいだいていたのか、あらためて突き付けられた気がしました。
自分だけの力で作ったものが一体どれだけあるのか、
私の創造の源になってくれているもの、パーツ、芸術品、美術品、映画、舞台、本、自然、料理、まわりの人々、それらがなくては生まれないものばかりではないのか、
自分だけで作ったものなど本当にあるのだろうか、
自分だけで作ったものがあると思うなら、それは傲慢ではないのか
と。
そんな気持ちを胸に、会場を後にしました。不思議と、とても気持ちは晴れやかでした。

サグラダ・ファミリア聖堂の建築はゆっくりしている。
なぜなら、この作品のご主人(神)が急がないからだ。

 ガウディは自分の名声のためにサグラダ・ファミリア建築に精力を注いだわけではありません。もしかしたら、キリスト教徒のためでも、スペインという母国のためでも、建築界のためでもないのかもしれません。
 彼は、彼の人生でだれのために何を成すべきか、きっと迷わなかったのでしょうね。

コメント

  1. I.Maya より:

    大学の時、デザイン画の先生が「自分が頭を捻って思い付いたデザインは、既に誰かが数百年も前に思いついていた」って言ってたの。
    そして、デザインの授業の目的は「自分の中に取り込んだ物をアウトプットすること」と。
    Satokoちゃんが作った物は「Satokoちゃん」というフィルターを通さないと世に生まれてこなかった物だと思うよ。

    フィルターは変わらない部分もあるし、常に変化していく部分もあるのだと、ブログを読んで思いました。

    • T.Satoko より:

      Mayaちゃん、素敵なコメントありがとう!!
      そう、確かに“どうアウトプットするか”がとても大切なんだよね。
      こういう展示を見たり、言葉に触れると、あらためて大学でクリエイティブな先生たちにたくさん出会えて良かったって思える。本当に大学で学んだことが財産になってるなぁって感じるよ🍀

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